2026年6月18日木曜日

森を歩き、星空を見上げて③:森で自分に還る

森の中を歩いています。

普段歩く人も少ない落葉樹林の小道。

梅雨の晴れ間の森は緑も青空もまぶしく、水分をしっかり含んだ土は柔らかく一歩一歩を受け止めてくれます。


普段私たちは街の中を歩いている時、たいていどこかへ向かっています。

役目があり、用事があります。


けれど森の中では少し違います。

急ぐ必要はありません。なにかをするために歩くのではないのです。


ただ森の木々を眺め、土を感じ、落葉の音に耳を澄まし歩いているうちに、心が少しずつ静まっていきます。


木の上で小鳥がさえずっています。

目をやってもなかなか見つけられません。

どこにいるのでしょう。

 

歌の聞こえる方に目をやり耳を澄ませます。

すると聞こえてきたのは別の鳥のさえずりでした。さらに、奥からも違う鳥の声がします。


鳥ってこんなにいろいろいたのでしょうか。


立ち止まって静かに驚いていると、頬をなでるように樹木の間を風が通り抜けていきました。

少ししっとりした心地よい風です。

その風はほのかな香りを運んでいました。


どこからくる香りでしょう。



ああ、すぐ近くにスイカズラが咲いていました。

大きな木が倒れて日当たりの良くなっていた場所に花を咲かせていたのです。

すぐ目の前にあったのに鳥の歌に気を取られて気づいてなかったのです。


金銀花とも呼ばれるスイカズラの花。

白から黄色に移ろっていく花の白と黄色の境はどこにあるのでしょうか。

白と黄色の間に無限の色がありました。

 

スイカズラのそばに橙色のモミジイチゴがありました。

一粒食べてみます。



痛っ。

トゲがありました。気をつけないと。


うん、思っていたよりも甘い。

自然な甘みってこういうことなんですね。

 

こんなにいろいろなことを感じたのは、いつ以来だったでしょうか。


鳥の声を聞く。

風を感じる。

花の香りに気づく。

色の移ろいを眺める。

小さな実の甘さに驚く。

 

どれも、何かの役に立つことではないかもしれません。

でも、そのひとつひとつに触れているうちに、私は少しずつ、自分に戻っていくような気がします。


日常生活の中で、私たちはいくつもの役割を担っています。


仕事をする人。

家族の中の誰か。

人に迷惑をかけないように。

誰かの役に立つように。


もちろん、それらは大切なものです。

けれど、いつもその役割だけで生きていると、自分が本当は何を感じているのか、わからなくなることがあります。


森は、そんな役割を少し脇においてみることができる場所です。


ただ、そこにいる。

見えるものを見て、聞こえるものを聞き、感じるものを自分に正直に感じる。

それだけで、自分の輪郭が少し戻ってくることがあります。


森を歩くことは、何かをなすためだけの時間ではありません。


ただ、自分に還る。


そのためのきっかけを、森はそっと差し出してくれているように思います。


2026年6月8日月曜日

森を歩き、星空を見上げて② 「 感じて、知って、また感じる」

 自然の楽しみ方はいろいろありますね。心地よさや美しさを感じることを大切にする方、いろいろなものの名前を知ることを大切にしている方、アドベンチャーな体験を重視する方など。


 私はガイドとしては、生き物たちの独特の生態や、自然のうまくできている仕組みなどをお話しすることが多いです。

 一方、自分で森の中に出かける時は、何も考えない時間やただそこにいるだけの、いわゆる「ぼーっ」とした時間が好きで出かけています。


 私が学生時代よくお邪魔していた本屋さん(かつて名古屋にあったSaranaというお店)のご主人が、環境庁(当時)への就職祝いにくださった本が、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』でした。自然が好きな人の間では有名な本だと思います。



 その本の中の一節に「知ることは感じることの半分も重要ではない」というものがあり、よく引用されています。


 この文章は、たまに「自然とふれあうのに、知識はいらない」というように解釈されることがあります。しかし前後の文脈からすると、カーソンが言いたかったのは、知識の否定ではなく、まずは驚きや不思議に思う心が大切だ、ということだと思います。


 知識は感動を深くしてくれます。


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 目の前で揺らめく木々の葉。緑の色は私たちに安らぎを与えてくれますね。


 その緑色を生み出しているのは葉緑体。細胞の中にある小さな存在です。

 そのもとをたどると、20億年ほど前に独立して生きていた単細胞の光合成生物に行きつくようです。

 それが何かのきっかけで別の生物の細胞の中で共に生きるようになり、長い時間をかけて、今の葉緑体になりました。

 目の前の葉の緑は、ただ美しいだけでなく、そんな長い生命の歴史も秘めています。

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 夜空で輝く星の光。白く見える星、黄色く見える星、赤く見える星、青みを帯びた星などもあります。

(お客様撮影)

 それらの光は、シリウスなら約9年、ベテルギウスなら約700年、アンドロメダ銀河なら約250万年かかって、私たちの目に届いています。

 夜空を見上げる時、私たちはさまざまな時代の光を同時に見ているのです。


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 目の前を飛んでいくかわいいシジュウカラ。恐竜の子孫です。


(photoAC)


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 私たちが世界にふれ、感動や驚きが生じると、不思議に思う心、「どうしてそうなっているのだろう」と、その理由を知りたくなる心が動き出します。

 そこに、先人たちが積み重ねてきた知識が加わり、改めて自然や生物にふれると、ときとしてその感動はさらに深まります。


 そのように知識は世界を眺める時の「触媒」になってくれます。


 知識そのものも面白いものですが、なによりそのような働きがとても大切だと思うのです。それは、カーソンの言葉の一面でもあるのではないでしょうか。

 知ることからではなく、まず感じることから始める大切さ。それはしばしば頭でっかちになってしまう私の自省のための言葉でもあります。


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 感じ、驚き、不思議に思い、知りたくなり、改めて感じる。

 そんな繰り返しが私たちの世界の見え方、感じ方を、少しずつ深くしてくれたのではないでしょうか。


 私たちに感性と知性の両方が備わっていることは、本当に恵みだなと思いながら、カエルの鳴き声を聴いています。

2026年6月3日水曜日

森を歩き、星空を見上げて① 「美しさを感じる」

 「森を歩き、星空を見上げて」では、森を歩き、星を見上げるなかで私が感じたこと、心に浮かんだことを、少しずつ言葉にしてみたいと思います。森のこと、生命のこと、星や宇宙のことなど。ご感想いただけたら嬉しいです。

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 新緑の美しい季節から、生命の力を感じさせる濃い緑の季節へと移りつつあります。

 森や星空のガイドをしていますが、ガイド中によく説明しているのは生物の生態や進化の歴史、星や宇宙の解説です。でも、森を歩いていて一番心に残るものは何かと訊かれたら「木々の葉のさざめきと木漏れ日」だと答えると思います。

 森の木々の下から空を見上げると、陽の光に透かされた一枚一枚の木の葉の色は少しずつ異なり、同じ葉でも風でその色や形を変え、サラサラと音を立てながらゆらめきます。ただ見つめているだけで気づくと時間が過ぎてしまっています。

 


 星空を見上げていて一番心に残るものは何かと問われたら、その輝きです。暗い夜空の中に光る星たちの光が、大気のゆらめきでまたたきます。星の色もそれぞれです。真っ赤なアンタレス、真っ白なベガ、少し黄色なプロキオン。望遠鏡で見れば、天の宝石と言われ、宮澤賢治が青宝玉(サファイア)と黄玉(トパーズ)と表現したアルビレオの二重星や、紫と白に見えるコル・カロリにも出会えます。何度見ても思わず息を止めて見入ってしまうぐらい美しいと感じます。

お客様撮影

 昔から「人はどうして美しさを感じるのだろう」と不思議でした。野の花や雨粒をまとったクモの巣、日の出や雲海、冬の夜空や夏の天の川を見ると美しいと感じます。でも、それでお腹が満たされるわけでもなく、生き残ることや子孫を残すことに、すぐ役立つようにも思えません。それでも人は美しさを感じる心を持っているようです。


 もちろん、健康状態や生命力を美しさとして感じることもあるでしょうから、まったく関係がないとは言えないのかもしれません。ただ、その「なぜ」は、今は少し横に置いておきたいと思います。大切なのは、多くの人の中に「美しさを感じる心」があるということなのだと思います。



 森の中で美しさを感じている時、私はまるで自分が透明になって景色の中に溶け込んでいくように感じることがあります。自分が完全になくなるわけではなく、自分の輪郭が薄くなって、見ている私と、見られている森が、少しだけ分かちがたくなるような感覚です。星空を見上げながら寝転がっていると、いつしか大地に支えられている感覚が薄れ、自分が夜空に吸い込まれて宇宙の中に浮いているような感覚になります。


お客様撮影

 そういう感覚になった時、ふと「自分の悩みなんて小さいな」とか「どうしてあんなことにこだわっていたんだろう」と、そして「これで十分」と感じるのです。不思議ですね。何かをしようとしなくても、ただ美しいという感覚を十分にあじわっているだけで、心が満たされていくのです。

 それは幸せといってもいいのではないでしょうか。


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